張子の鹿

WRITING

『UFOが見えた日』見ることと、見えること

UFOを見たことがある。
セルリアンブルーの空を背に、銀色の円盤がグルグルとまわっている。
16歳の夏に見たUFOは、キューピーマヨネーズのテレビCMだった。
その有機的な曲線はルノワールの描く女性を想わせ、その鈍い銀色にはこの世のいろんな色が映り込んでいた。
それ以来UFOが僕のちょっと気になる存在になった。

Unidentified Flying Object (未確認飛行物体)
未確認だから存在できるもの、つまり正体がハッキリしてしまうとUFOはUFOでなくなってしまう。
正体が分からないことが存在条件だから、UFOを見るということは、自分が見えたと思えば誰にでも見ることができるのかもしれない。
けれども、見えたと思った瞬間、いままで何だか解らなかったものが解った瞬間に未確認ではなくなり、消えてしまう。
深いようでいて世間からの扱われ方は軽い。そんなUFOのような存在に憧れた。

まずは実際にUFOを見に行くことにした。
ある団体が主催する「UFO観測会」なるものが行なわれているという情報を得た僕は開催地である明治神宮へ出かけた。初夏の薄曇りの日曜日だった。
参加者は15名ほど、年齢は30代~50代くらいで、ほとんどが男性だ。
UFOを見るのに天気は関係ないと代表の方が教えてくれ、さらにUFOを見るには「見える」という強い意志が必要なのだと彼は説き、みんなで輪になって目をつぶらせUFOを見ている数時間後の自分達の姿を想像させた。
僕も目を閉じて「見える、見える」と頭の中で呟いた。
いよいよ観測が始まった。
観測といっても特別な儀式や祈りがあるわけでもなく、観測会常連のオジサンたちは芝生の上に寝転がったり、体育座りなど、おもいおもいの格好で、じっと空を見始めた。
僕も不自然に空を見上げる集団にまじる。少し肌寒いが新緑の芝生は気持ちがよく、眠気と戦いながらも空を見続けた。
UFOを見た際には証拠となる写真を撮りたいのでカメラを持参したが甘かった。他の参加者はスポーツカメラマンのような巨大望遠レンズ装備の一眼レフやビデオカメラ、双眼鏡と慣れた様子。
観測会は全国一斉開催らしく、各地からの目撃情報が時々伝えられていた。だんだん期待も高まる。

しかし折角のカメラも、フィルムはひとコマも巻かれないまま時間だけが過ぎていった。こんなに空を見つづける事は初めてだ。オジサンたちも飽きてきたのか、過去に出会ったUFOの自慢話、思い出話に花が咲きはじめた。
そんなとき。
「あれUFOじゃないか?」の声と同時に皆立ち上がって同じ方向を指差している。
明治神宮に緊張が走る。
渋谷方面、薄鼠色の南の空に極小の黒い点が見えた。あれがUFOか?「よく見えない、全然見えない」と言っている僕に、興奮した代表がビデオカメラで捉えたその物体を見せてくれた。「間違いない、これUFOだよ」と、とても嬉しそうに見せてくる。
光学ズームで見るソレは黒い点の下にうっすらとシッポのようなものが付いている。
そのときは言えなかったけど、僕にはソレが地球でいうところの「風船」にしか見えなかった。

ひとり納得のいかない僕をよそにまわりの大人には笑顔が溢れ、すっかり興奮している。その全く無邪気な笑顔はキラキラしてて無条件に幸せそうだ。
ふと僕は、最近こんな笑顔で笑ったのはいつだったろうかと、思い出そうとしたけど思い出せない…
なんだか彼らをとてもうらやましく思い、僕は甘酸っぱい気持ちになった。
結局その日、僕にUFOを見ることはできなかったけど、UFO以上の発見をした気がした。
ものが見えるとはどういうことなのか。
確かにあの瞬間、あの素敵な大人たちにはUFOが見えていたのだ。

ものは何故見えるのか。
一つは、物質に当たった可視光線が反射し、眼球の水晶体から光を通して色や形を認識するという物理的な見え方。
もう一つは、同じものを見ても周囲の環境によって変化する心理的な見え方。
心理的というのはたとえば、以前「ミセパン」というものが話題になった。女性がローライズのジーンズやミニスカートを穿く際に、見えても構わないという意思のもとに着用するファッショナブルなパンティーだ。 だから、ミセパンを穿いている本人はたぶん下着という認識はないのだと思う。しかし、穿いている本人が下着のつもりがなくても、そんなことを知らない僕が街でたまたまソレを見れば、乙女の禁断の秘部をかいま見てしまったと思い、後ろめたいながらも体に充血をおぼえ神に懺悔するかもしれない。 このようにそれぞれの記憶や認識というスイッチ一つで、同じものを見ても全く違うものに見えることがある。いま見ている世界がすべてだ。という世界と、いま見ている世界がすべてではない。という世界は、同時に存在する。見えない世界を実感することはできなくても、ミセパンを知ることで自分には見えない世界があることを想像することはできる。
そうすると、あのときUFOを見たと言っていた大人たちの言葉を疑うことが僕にはできなくなる。

パンツといえば、最近僕は海水パンツにも注目していた。ある夏、海辺のコンビニに入店した際、普通の買い物客に混じり、海水浴に来ている人たちが海水パンツ一枚の姿で買い物をしていた。 一瞬ドキッとしたが、海に近いこともありごく当たり前の風景のようだ。
しかし海水パンツといっても、見た目はトランクスタイプの男性用下着と変わらない。
もし、同じ海水パンツ一枚で新宿のコンビニに入れば、優秀な日本警察がすぐにむかえに来て収監プレイボーイと宣告されるだろう。新宿では海水パンツ姿を海水パンツとして見てくれる人は限りなくゼロに近い。新宿をパンツ一枚で歩くのは明確な性的嗜好をもった紳士だけだからだ。
ここでも、同じパンツが違うパンツに見えてしまうイリュージョン(illusion:幻想、幻覚、勘違い)が起こる。
また、ある露出モノのポルノ映画の出演者は、公の場でパンツ一枚の姿を職務質問されても「これはズボンです。」という自己見解を主張することで、法の網をくぐり抜けられると語っていた。これも認識というトリックを使ったイリュージョンだと思った。
人間がものを見るときにはその時代や場所性、前後の文脈などでも見え方がまったく変わってくるということだ。

絵を描くうえでイリュージョンは重要な役割をもつ。
二次元上に三次元のものが、在るように見えるということが絵画の一つの側面だとすれば絵画はイリュージョンなしには成り立たない。

人間は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感で世界を把握するが、何よりも見る事を優先したがると思う。何でも見たい。
けれども人間には見えないものもある。電波や紫外線、赤外線、UFOなどが挙げられるが、人間は見えないものの存在に気付いたとき、それを見てみたいと思う。
赤外線に反応する機械を作り光や数値に変換して存在を確認したり、電波を使ってテレビというものを見るようになった。そうやって、概念的な世界から自分たちの知覚できる世界に持ち込むことによって、人間の見える世界は広がりを続けてきた。
人間の見ることへの飽くなき欲求は尽きることがない。
人間は世界を遍く照覧する神の眼を手に入れてしまったのか?

いや。科学の進歩とともに視覚化できる世界は広がりを続け、X線によって生きた人間の骨まで見えるようになった。でも、見えてしまったことで何かを失うこともある。
ある人がこんな詩を歌った
「Imagine all the people…」想像してごらんすべての人々が…
想像してごらん雲に覆われた空の向こう側を。この道の向こうに何があるのかドキドキして歩いたことを。暗闇の中には恐ろしい怪物が見えたあの頃。
見えないこと、知らないことで見える世界もある。そしてそうゆう世界には果てがなく豊かだ。

いま見ている世界や絶え間なく更新される情報は、なんだか本当らしい顔をしているけど、その情報を受発信する人間という生き物に感情と想像力があるかぎり、少しずつズレながら伝えられる。真実を伝えたい人でさえズレるのだし、ましてや目的をもって情報操作をする人もいるのだから、すべての真実を見極めることは不可能だ。

でも、こんなにメディアが発達しても完璧な情報の疎通ができないこと、人間に知能がある以上どうしてもものを見るときに歪んで見てしまうこと。それはとても人間らしい見え方で悪くないことだと思う。
UFO観測会のときに感じた胸のときめきは、風船という虚構のUFOを無邪気に信じて喜べる心意気に対して抱いた気持ちであり、色々な人の様々な認識の違いを愉しめる余裕こそが魅力だと感じたのだと思う。

この作文を書くにあたり、9年程前に見て、UFOに興味を持つキッカケとなったキューピーマヨネーズのCMをもう一度見たくて、情報を探してみた。
ところがどこにもそんなCMがあったような痕跡が見つからない。
しかしそんなはずはない、確かにあのときUFOのCM映像を見たんだ。
誰かあのCM見たことある人、名乗りでて下さい。
でも、あのとき本当に見たかどうかよりも、今、あのとき見たと感じていることの方が重要なんだと思う。
見るってそういうことだから。

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